マイケルジョーダンがラストダンスにて着用していたスニーカーをまとめてみる。-その2-
- 2020.05.22
- スニーカー バスケ
- The Last Dance, マイケルジョーダン
撮影:筆者
こんにちは。壮年留学生です。
本日はネットフリックスにて配信中のマイケルジョーダンのドキュメンタリー、「The Last Dance(ラストダンス)」にてジョーダン本人が 着用していたスニーカーの解説記事の第2弾をお送りします。
今回はエピソード3以降で登場したシューズをまとめています。若干のネタバレを含みますので、その点ご了承いただいた上で読み進めていただけましたら幸いです。
前回の記事は下記リンクからどうぞ。
AIR JORDAN I
ジョーダン最後のMSG
マイケルジョーダンがデビューした84-85シーズンに登場したエアジョーダン1(AJ1)ですが、ブルズ最終年である97-98年のとある試合でも着用されています。
それは1998年3月8日、ニューヨークのマディソンスクエアガーデン(MSG)で行われたニックスとの試合です。その日はブルズ時代のジョーダンがMSGでプレーする最後の日でした。
劇中にて、ジョーダンはMSGはお気に入りのコートとしています。そこで行われた数々の伝説的な試合と、熱狂的なファンへのリスペクトを込め、デビュー時のシグネイチャーシューズであるAJ1を着用してその試合に臨みました。
14年前のプロデビュー時に発表されたバッシュを履いてプレーしていたジョーダンの足は、ハーフタイムの時点でボロボロだったそうです。しかし、前半から調子よくシュートを決めていたジョーダンはAJ1を脱ごうとしませんでした。
結果、エアジョーダン1を履いたジョーダンはこの試合で42点を沈め、勝利を収めています。試合後にシューズを脱ぐと靴下が血まみれになっていたそうです。
ウイングロゴなしのAJ1
エピソード5では、ジョーダンがナイキと契約を行った背景が語られています。そこではナイキのウェアを着用した若かりし頃の本人と、サンプル段階のエアジョーダン1を確認することができます。
当時、新興メーカーだったナイキと契約することにジョーダン本人は後ろ向きだったそうです。劇中ではそのころはアディダスと契約したかったと本人の口から語られています。
AIR JORDAN II
実はプロ2年目のシーズンでは着用されていない2代目エアジョーダン
ジョーダンのプロ2年目は怪我の影響でレギュラーシーズンのほとんどの試合を棒に振る結果となります。そして、数少ない出場試合で着用していたシューズはエアジョーダン2(AJ2)ではありませんでした。
85-86シーズンに着用されたシューズは引き続きAJ1と、AJ1のアッパーに後にAJ2のソールユニットとなるものを組み合わせたエアジョーダン1.5と呼ばれるハイブリッドモデルでした。
一般的に知られているAJ2はプロ3年目となる86-87シーズンにようやく着用されることになります。しかし、シーズン途中で傑作、エアジョーダン3に履き替えたことでAJ2はその存在感を更に落とすことになります。
イタリアンメイドのラグジュアリーなエアジョーダン
デザインを担当したのはAJ1に引き続きピーター・ムーアとエアフォース1のデザイナーとして知られるブルース・キルゴアです。
AJ2で目指したことはタキシードに合わせて履けるようなラグジュアリーなバッシュにすることでした。
アッパー全面にイタリアンレザーを使用。そこにイグアナの革を型押しで施した合成皮革をオーバーレイとして張り合わせ、高級感を演出しています。
贅沢な素材を使ってデザインされたAJ2はシリーズ唯一のイタリア生産(オリジナルのみ)のエアジョーダンとしても知られています。
コンセプト自体はシリーズ屈指の人気作であるエアジョーダン11に近い気もしますが、AJ1に比べて跳ね上がってしまった価格や、スウッシュが省略されたデザインは市場に受け入れられず、現在に至ります。
AIR JORDAN III
ティンカーハットフィールドデザインのエアジョーダン時代の幕開け
前作の不発を受け、エアジョーダン3(AJ3)ではティンカーハットフィールドを新たなデザイナーとして抜擢。以降、彼はシリーズのデザイナーとしてブルズ時代のマイケルジョーダンの足元を最終シーズンまで支え続けました。
AJ3はファンに馴染みのあるデザインが初採用された一足として知られています。一つは今でもブランドロゴとして使用されているジャンプマンロゴ。もう一つはエレファントプリントと呼ばれる模様です。
いずれのデザインもエアジョーダンを象徴する意匠として知られ、カラーリングによっては2019年発売のエアジョーダン34にも採用されています。
また、ビジブルエアが初めて搭載されたエアジョーダンであり、その流れはブルズ時代に本人が着用したものでは、6代目エアジョーダンまで続きました。
その他にも以前よりも足首部の高さが低いミッドカットを採用していたり、ソフトなレザーを使うことで靴を慣らす作業が必要なかったりと、ティンカー初のエアジョーダンに対するこだわりが詰め込まれたモデルです。
得点力を遺憾なく発揮した86-87シーズン
AJ3を履いて戦った1986-1987シーズン、ジョーダンはそのスコアリング能力で輝かしい記録を打ち立てます。1963年のチェンバレン以来となるレギュラーシーズン3000得点は、このシーズンのジョーダン以降に達成した選手はいません(2020年5月現在)。また、1試合平均37.1点という数字と共に獲得したシーズン得点王についても、30年以上破られていません。
AIR JORDAN IV
フライトシリーズとして発表されたエアジョーダン
スピーディーな動きを得意とするバックコートのプレーヤー向けのライン、フライトシリーズから発売されたシューズとして知られるエアジョーダン4(AJ4)。お披露目となったのは1989年にヒューストンで行われたオールスターゲームのことでした。
デザイン面ではバスケットボールのリングに見立てたパーツが特徴的。また、軽量性と通気性を求めたジョーダンのためにメッシュパーツをアッパーに採用しています。
ジョーダンルールに苦しんだシカゴブルズ
1989年の東カンファレンスファイナルにて、シカゴブルズはバッドボーイズと呼ばれたデトロイトピストンズと対戦。デトロイトはジョーダンルールと呼ばれる激しいボディコンタクトを用いたディフェンスでジョーダンの動きを封じ、4-2でシリーズを征しました。
AIR JORDAN V
フィル・ジャクソン体制の始動
ピストンズに破れた翌年の89-90シーズン、ブルズはそれまでのヘッドコーチだったダグ・コリンズを解雇し、アシスタントコーチだったフィル・ジャクソンを新たなヘッドコーチとして据えます。
新コーチの下、それまでのジョーダンを中心とした個人技主体のプレーから、トライアングルオフェンスと呼ばれるシステムを用いたチームプレー中心のスタイルへと変貌していきます。
新体制の下、準備を行ってきたシカゴブルズでしたが、宿敵デトロイトピストンズとのカンファレンスファイナルにて第7戦にもつれこんだ末にまたしても敗れてしまいます。
過熱した人気によって殺人事件まで発生したシューズ
この年に誕生したエアジョーダン5(AJ5)は空を舞う戦闘機からインスパイアされたデザインです。ジョーダンの華麗な動きと相手を圧倒する脅威的な得点力から連想されています。ミッドソールに描かれたギザギザの模様は第二次世界大戦時の機体の先端に描かれていたアートがモチーフだそうな。
AIR JORDAN VI
勝利に飢えたジョーダン
カンファレンスファイナルにて2年連続デトロイトに敗れ、オフシーズンに入ったシカゴブルズのメンバーは通常ならば休暇に入るところ、間髪入れずに翌シーズンに向けたトレーニングを開始します。ジョーダンはそれまで本格的に取り組んでこなかったウェイトトレーニングによる肉体改造をスタート。全ては打倒ピストンズを目的としていました。
このころからチームの他のメンバーの練習への向き合い方やプレーに求めるものが増えてきたそうです。「一つとしてミスが許されない」、「まるで鬼だった」と、当時のジョーダンの様子を振り返る元チームメイトたち。
ジョーダンもまた、そのことを自覚していたことを劇中で語っています。
キャリア初のリーグ制覇を支えたエアジョーダン
この年のカンファレンスファイナルも昨シーズンと同じカードとなり、3年連続でデトロイトピストンズとの対決となりました。
接戦となった昨シーズンとは異なり、ジョーダン率いるシカゴブルズは相手に1勝もさせず、スウィープでデトロイトを下します。こうしてチーム初のNBAファイナル進出を決定しました。
マジックジョンソン率いる名門LAレイカーズとの決勝は1戦目は落としたものの、続く4試合で勝利を収め、チーム初の優勝を達成します。「ジョーダンはチームを勝たせられない」という下馬評を覆す内容でのリーグ制覇でした。
ジョーダン初のタイトル獲得を支えたエアジョーダン6(AJ6)は着脱のしやすさが考慮された仕様になっています。タン部分の2か所の大きな穴と、ヒール部のループはポルシェからインスパイアされてデザインされたもので、足入れ時にそれぞれの穴に指を通すことによってシューズをスムーズに履くことができるようにつくられています。
AJ5から引き継がれた仕様としては、ビジブルヒールエア、トランスルーセントアウトソールとシューレースストッパーが挙げられます。
アッパーの甲部分に刺繍されたジャンプマンロゴが印象的な一足です。スラムダンクの桜木花道が履いていたバッシュとしても知られていますね。
AIR JORDAN VII
成熟したチームは2連覇を達成
91-92シーズンのシカゴブルズは歴代屈指の実力をもったチームとする意見が少なくないです。レギュラーシーズンの勝利数を前年の61勝から67勝に伸ばし、支配的な強さでカンファレンス優勝を決めます。
続くファイナルでポートランドを下し、チームは2連覇を達成。ジョーダン個人としてもシーズンMVP、得点王、ファイナルMVPを2年連続で獲得しています。
シーズン終了後はアメリカ代表としてバルセロナオリンピックに参戦。NBA選手のオリンピックチームへの合流が認められた初めての五輪大会でした。ドリームチームと呼ばれたアメリカ代表は危なげなく優勝し、世界中にNBAの実力とマイケルジョーダンの存在をアピールしました。
ナイキのロゴを取り払った初めてのエアジョーダン
AJ7のデザインにあたっては奇抜な要素を入れず、AJ6のいいところを引継ぎながら機能の向上を目指しました。その為、アッパーの外観は前作と似たデザインだと言われることが多くあります。
前作からの軽量化を図るため、ヒールのビジブルエアミッドソール内蔵式のものに変更されています。また、ライニングにネオプレーン素材のブーティーを配したハラチシステムを採用し、フィット感の向上を行っています。
そしてアッパーから一切のナイキロゴが廃除された最初のエアジョーダンでもあります。これには、ジョーダンブランドとして独立していくというティンカー・ハットフィールド想いが込められていたそうな。
AJ7の特長として、オリジナル発表時に「ブルズカラーが発売されていない」ことが挙げられます。前作までは白、赤、黒を基調とした所謂BREDやCHICAGOといったカラーリングが存在しますが、今作ではそれらのカラーリングは発売されませんでした。また、マイケルジョーダン本人が着用したオリンピックカラーが存在する唯一のエアジョーダンです。
アウトソールとタン部分に施された模様は、西アフリカの部族に伝わるグラフィックからインスパイアされています。
AIR JORDAN VIII
簡単ではなかったスリーピートへの道のり
2連覇後の92-93シーズン、ブルズは昨期より成績を落とし、レギュラーシーズン2位でプレーオフを迎えます。東カンファレンスのトップはパトリック・ユーイングを有するニューヨークニックスでした。
また、シーズンMVPはリーグトップの成績でプレーオフに進出したフェニックスサンズのチャールズバークリーに譲っています。このシーズンの不調は、当時マイケルを取り巻いていたスキャンダルが原因だとする声もありました。
ニックスの気迫に苦しみながらもブルズはカンファレンスファイナルを通過。迎えたNBAファイナルはシカゴ対フェニックス。奇しくもシーズンMVPを獲得したバークリーとの対決でした。
ジョーダンはバークリーにMVPを奪われたことがモチベーションになったと答えています。彼は1試合平均41.0得点というNBAファイナル記録と共にリーグ三連覇を達成しています。
最も重厚なエアジョーダン
前作の軽量でシンプルなデザインから一転、AJ8では一目でそれとわかるクロスストラップが装着され、アッパー側面にカラフルな樹脂製のパネルが貼り付けられたデコラティブのデザインとなっています。
また、タン部分のジャンプマンロゴの周囲は絨毯のような生地が配され、これまで紹介してきた中でもポップな印象のあるモデルです。
プロモーションについては前作AJ7に引き続き、バックスバニーとのコラボレーションCMが放映されていました。この印象もまた、AJ8のポップさを加速させている気がします。
まとめ
ということで今回の記事ではジョーダンのデビューから最初のスリーピートまでを支えたエアジョーダンを解説してきました。次回の記事では、最初の引退から後期スリーピートに着用されたシューズについて掘り下げていこうと思います。
最後までお読みいただいた皆様、ありがとうございました。
追記(2020年5月31日):第三弾を公開しました
-
前の記事
足を鍛えるために誕生したスニーカー、NIKE FREEの革新性と2019年版の原点回帰について。 2020.05.20
-
次の記事
マイケルジョーダンがラストダンスにて着用していたスニーカーをまとめてみる。-その3- 2020.05.31